あなたはおそらく、東アフリカのエリトリアで作られたヴィンテージレコードを収集し、その魅力を発信するという分野において、世界でも数少ない専門家の一人だと思います。今日は、日本ではまだあまり知られていないエリトリア音楽について、より詳しく伺いたいです。
- まずはエリトリア音楽に魅了された理由を教えてください。それまではどんな音楽を聴いていましたか?
私はエリトリアにルーツを持っており、物心ついた頃からエリトリア音楽は常に私の人生の一部でした。最も古い記憶のひとつは、1980年代後半にTekle Kiflemariam(Wedi Tukulとしても知られる)を聴いていたこと、そして1987年から1991年にかけて行われたボローニャのエリトリア・フェスティバルのライブ映像を観ていたことです。あの頃の光景はいまでも強い郷愁を呼び起こします。
さまざまな音楽を聴いてきましたが、本格的にレコードを集め始めたのは20代半ばになってからでした。最初に購入した数枚はいまでも鮮明に覚えています。George Dukeの『Brazilian Love Affair』、Chicの『C’est Chic』、そしてReturn To Foreverの『Romantic Warrior』。ロンドンのノッティング・ヒルにあるレコード店で、それらを20ポンドで手に入れたのですが、あれほど価値ある買い物はありませんでした。その後の自分にどんな未来が待っているか、そのときは想像もしていませんでした。
- エリトリアのレコードを集めてアーカイブするようになったのは、いつ、どのようなきっかけからですか?
2011年、短期間だけ配信されていたポッドキャストをやっていた友人から、僕たちが共通して愛しているエリトリア音楽について話さないかと誘われたのが始まりでした。当時は、古いエリトリア音源を発見したりアーカイブしたりするための中心的な場所が存在しないと、二人とも感じていたんです。それから数年後、Tewolde Reddaの音楽を収録したコンピレーション──1970年代初頭に45回転盤でリリースされていた曲の再発──に出会いました。そうした経験が、後に芽を出すことになる小さな種を心の中に植え付けたのだと思います。本格的に動き出したのは、コロナ禍のロックダウンのときでした。1970年代にどんなエリトリア音楽がレコードでリリースされていたのかを調べ始めたんです。その過程を情報交換や認知拡大のためにSNSで発信したところから、「Eritrean Anthology」というプロジェクトが生まれました。その頃、初めてオリジナルのエリトリア盤シングルを手に入れたのですが、「これで終わりにするのは難しいな」と思ったのを覚えています。そこから次々にレコードを見つけ、集めていくうちに、同じ旅路を共にしてくれる仲間のコミュニティも自然と広がっていきました。
- エリトリアでは70年代のごく限られた期間に、ごく限られた作品数しかレコードがリリースされなかったんですよね? そのあたりの事情について教えてください。
1970年代初頭、エリトリアのアーティストたちはおよそ70枚ほどのシングル(45回転レコード)をリリースしました。録音の多くはエチオピアのアディスアベバで行われ、プレスはケニア、インド、イタリアなど各国の工場で行われていました。リリース元はAmhaやPhilipsといった有名レーベルから、Emporio Musicale、Yared Records、Axum Recordsといった小規模なインディペンデントレーベルまでさまざまでした。当時、レコード制作には多大な費用と手間がかかり、さらにエリトリア独立運動が激化していた時期でもあったため、レコード化できたアーティストや楽曲はごく一部に限られました。その結果、1970年代半ばにはエリトリアのレコード制作はほとんど途絶えてしまいました。
- 当時のエリトリア音楽はどのようなサウンドだったのでしょうか?また、どんな影響を受けていたのでしょうか?
当時のレコードは、国全体の音楽を網羅しているわけではなく、主に首都アスマラの音楽シーンを垣間見ることができるものです。地元で録音の機会はあまり多くなかったものの、アスマラにはクラブやホテル、地域のイベントなどで演奏するミュージシャンが数多くいて、活気ある音楽文化が育まれていました。彼らの音楽は、エリトリアの伝統的なリズムや旋律に、西洋のサウンドの影響を融合させたものでした。当時大きな影響を与えたのが、アスマラにあったアメリカ軍のラジオ局「Kagnew Station」です。ジャズやソウル、ロック、ポップスなど幅広い音楽を放送していたそうで、現地のミュージシャンやリスナーは世界中の音楽に触れることができました。そうした体験が創造性や実験精神を刺激し、その影響は西洋的な要素を取り入れたレコードのいくつかに色濃く表れています。
- 歌詞はどのような内容のものが多いですか? やはりラブソングでしょうか?
当時の楽曲の多くは、たとえ恋愛歌のかたちをとっていても、政治的なメッセージを内包していました。当時は政治的な意見を公に表現することが危険を伴う時代であったため、ミュージシャンたちは「愛」や「個人的な感情」という言葉を借りて、自由、団結、そして抵抗といったより深いテーマを表現していたのです。そのようにして音楽は、人々の意識を高め、結びつけ、独立を目指す闘いの中で希望を与える、非常に強力な手段となっていきました。
- 現在、エリトリア音楽のレコードのレアリティはどの程度なのでしょうか? あなたはすでにほとんどのレコードを入手済みですか?
ヴィンテージ期の最後のレコードは1975年にリリースされました。つまり、あの時代の最終盤からすでに50年が経ったことになります。小規模なレーベルは、大手に比べてはるかに少ない枚数しかシングルを制作していなかったため、現存する数はさらに限られています。正確な生産数は不明ですが、今日では店頭でそれらのレコードに出会うことはほぼ不可能といっていいでしょう。私にとって、それぞれのレコードは歴史書の新しい1ページのようなもので、物語の続きを知りたいという好奇心から、集める手を止めることができずにいます。すべてのレコードを揃えるまで、もう少しのところまで来ていますが、状態の良し悪しには差があります。それでも、1枚1枚との出会いを重ねるたびに、この特別な時代のエリトリア音楽の全体像が少しずつ見えてくるのを感じています。
- Eritrean Anthologyとしてエリトリア音楽の普及活動を行ってきて、手ごたえを感じていますか?
そうであってほしいと思っていますが、「Eritrean Anthology」はあくまで大きな物語のほんの一部にすぎないことも自覚しています。すでに多くの人たちがそれぞれの視点からエリトリアの音楽や文化を語り、記録し、継承しています。そのコミュニティの一員でいられることをとてもありがたく思いますし、こうした物語が今も息づき、人々をつなげ続けている姿には本当に心を動かされます。
- Eritrean Anthologyとして、将来的にはどんなビジョンを持っていますか?
これまでにいただいたフィードバックの中で特に印象的だったのは、エリトリア人のリスナーだけでなく、エリトリア出身でない人たちからも寄せられたものです。多くのエリトリア人にとって、この音楽を聴き、ヴィンテージ・レコードの時代について知ることは、これまで親と共有したことのなかった曲や思い出についての新しい会話を生むきっかけになったそうです。世界のさまざまな人々にとっても、初めてこの音楽に触れる体験は、文化の違いを超えて深く心に響くことを改めて教えてくれました。それは音楽だからこそ可能なことだと思います。今回のDJセットでのコラボレーションを通じて、より多くの人にこの音楽の魅力を届け、つながりや発見、共感の瞬間を生み出せればと思っています。そして将来的には、自分自身の手で筆を取り、この音楽やそこにまつわる記憶、関わった人々を、より深く、個人的な視点で掘り下げて記録できればと考えています。